子育ての不安とインターネットの話

数日前インターネットの海の中で、こんな話を見た。
「子供のイヤイヤ期に参っていたとき、保育士さんに『お子さんから信頼されてる証拠ですよ』と言ってもらってすごく救われた」

うん。いい話だ。いい話なんだけどインターネットに書いてはいけない。
なぜかっていうと、イヤイヤ期がまだ来ていない子の親やイヤイヤ期が無かった子の親を傷つけるから。
もちろん一対一で言うのはいい。素晴らしいことだ。平たく言えば、方便とはそういうものだ。

たとえば私はイヤイヤ期(第一次反抗期)が遅かった。四歳に近かったはずだ。その話を私が母から聞いたのは中学生になってからで、あんたは何もかも鈍くさくってねと母は笑っていた(今思うとひどい誹謗中傷だ)。けれど、反抗期が来る前にその記事を読んでいたらどうだろうか? 三歳にもなったのにまだ反抗期が来ない、私は我が子に信用されていない! と恐慌状態に陥っていたのではないか。
まあ、うちは親も私のことを言えないほど鈍くさい人なので、うちの親に限ってはそうならなかったかもしれないが、色んな情報が日々目の前を流れ去っていくこの時代のインターネットでそれは良くない。
特にこういう記事は「イヤイヤ期」で検索すると出てきやすい。イヤイヤ期が来なくて不安になってる母親がこんな記事を見てしまったら追い打ちになる。

インターネット上での知識の共有は素晴らしいものだ。だが、これは良くない。たかがパンピーの個人ブログなのでそこまで責任を持てとはもちろん言えないが、良くない。
たぶん自分と似たような状況で苦しんでいる人に「救われた言葉」をシェアしたかっただけなのだろうが……

子供の発育には違いがあります。体についてもそう、心についてもそう。歩き始めるのが遅い子も、イヤイヤ期が遅い子も、それはそういうもの。私はどっちも遅かったけど。
あんたは人より鈍くさいけど、ゆっくりでも成長はしてる。人より遅くなったっていつかできるようになる。うちの母はしょっちゅうそんな風に言いました。「できない」「できていない」と言われることはほとんどありませんでした。「今はまだできない」「ちょっとずつうまくなっている」という言い方をします。人よりも遅いけど、人よりもまだ下手だけど、それだけだから。
まあ度を超えてのんびり(極めて婉曲な表現)した人間に育ったことは確かですけど、「できない」と「まだできない」は明確に違うものです。

何の話だっけ。そう、インターネットも良し悪しだねって話です。
鵜呑みにしちゃだめですよ。発信の敷居が下がれば下がるほど、情報を受け取る側は気をつけないといけなくなります。うっかりしていると傷ついちゃう。
統計に意味が無いとは言わない、先人の知恵だってそれは尊いものですけど、眼の前にいる我が子は世界に一人だけの存在です。速度は人それぞれ。その時の水準で(私は先天性疾患を持っていたので周りと比べれば相対的にあんまり元気ではなかった)元気なら良し。優先すべきは目の前の子供であり、それを育てる親自身であり、平均値じゃありません。

あーあとついでにもう一個。知人が「私には親の適性が無いんじゃないか」みたいな悩み方をしていたので書く。そういう風に悩んでいる事自体が十分に親の適性だと思うよ、私は。
子供の性格が千差万別であるのと同じように、親の性格も千差万別だ。虐待しているわけでもないのに、それ以上「こうあるべき」なんてもんは存在しない。形はどうあれ、責任感こそが親の愛そのものだと思うわけだ、個人的には。それは真摯さでもいいし、悩むことでもいいし、とにかく稼ぐことでも、暗い顔をしないことでも、なんでもいい。親であろうとする限りあなたは親だよ。

って書くと、言葉というのは難しいもので、毒親持ちを傷つけそうだなとも思う。
ときどき、子供を所有物として扱う親がいる。そういうのもまあ「親面」の一種ではあるわけで……。それは越権だからね。
愛と札を貼られたものだって、受け取るかどうかは受け取る側の自由だ。暴力はもちろん受け取らなくていい。
受け取られなかった手紙が送り主のところに返るしかないように、怒りというのもまた受け取られなければ送り主のところに返るしかないのだ。

悪し様に言われがちな二分の一成人式も、感謝の手紙を読むとかそういうのを抜きにすればいいものだと思うんだよね。大人の半分の権利と責任を持っている、という自覚を促すためには。
選挙権や納税義務を教え始めるきっかけとしてもちょうどいいだろうし。